キミと一緒に、旅に出よ。

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プロローグ

 旅に出たいと思ったのは、12歳のときだっただろうか。
 別に家に居るのが嫌だったわけじゃない。
 「アウトドア派かインドア派のどっちだ?」と尋ねられたら、確実にインドア派だと答える程家が大好きっ子だから。
 それでも旅に出たいと思ったのは、暴力を振るう父親のせいだ。
 ひとたび顔を合わせれば、2・3回殴られるのは当たり前。
 火の付いたタバコを腕に押し付けられることがあれば、いきなりフォークで太ももを刺されたこともあったっけ。
 体中についた痣や傷は、もう数える気も失せてしまった。要するにそれだけ酷いってこと。
 まだ僕が小さかった頃、一度だけ児童相談所の人が僕の様子を見に来たことがあった。
 数日間だけ保護されたけど、すぐに家に帰された。何でも父親がいい人ぶって、上手く児童相談所の人を丸め込んだらしい。
 それ以来、父親は見えるところに傷や痣が残らないように暴力を振るうようになった。
 お陰で17になった今でも、僕は父親の下で手ひどい暴力を受ける日々を送っている。
 17歳になったんだから、自立すればいいのだけど、僕には一つの心配事があったから、どうしても自立することが出来なかった。
 僕には母親が居る。
 精神を病み、薬無しでは生きていけなくなってしまったか弱い母が。
 薬を飲んでいれば一人でも大丈夫なんだけれど、時々酷く不安定になる母さんをこの家に残していくなんて出来なかった。



「…はぁ、散々だったな。」



 ついさっき殴られて痛む頬を押さえて、僕はトキワの森を歩いていた。
 今日は父親が一週間ぶりに出張から家に帰ってくる日で、そのことを忘れて暢気にゲームをしているところを見つかり、怒られたのだ。
 時刻は23時。よい子はとうの昔にお寝んねの時刻。
 「こんな遅くまでゲームをやるな」と、ゲーム機本体をぶち投げられて壊された。
 そして挙句の果てには、「今夜は外で寝ろ。」だ。
 言うことを聞かなければ、それこそ手にしたビール瓶で殴られそうだったから、大人しく家を出た。
 急いでいたから毛布も何も持ってきていない。
 幸い7月の初めだったから、野宿でも何とか過ごせそうな気温だ。
 僅かに湿気を含んだ風のお陰で、寒くもなく、暑くも無い。
 かといって、森で野宿するのは少しばかり気が引ける。
 正直、夜の森は怖い。ここがトキワの森だから、更に怖い。
 トキワの森は、比較的弱いポケモンたちの住処になっている。
 万が一野生のポケモンが飛び出してきたとしても、なんとか自力で抵抗できるだろうけど、飛び出してきたのがポケモンじゃなかったら…?
 強盗や殺人鬼だったら、とてもじゃないけど平均身長より遥かに小さい僕じゃ太刀打ちできない。
 更に怖いのは人間じゃない"何か"。
 このトキワの森には、時折「出る」という噂があるのだ。
 青白い炎が宙をふわふわ浮いていたり、その炎と一緒に人が歩いているのを目撃した人が何人も居る。
 人だと思って声をかけると、突然眩暈が襲ってきて…気付いたら朝になっているらしい。
 時には攻撃されたという人も居る。
 そんなこんなで、このトキワの森は地元住民から恐れられている。
 当然僕も恐れいてるわけで、正直この森で野宿しようと考えたこと後悔していた。
 本当だったらお隣さんの幼馴染みの家に転がり込めばよかったのだが、さすがに時刻が遅すぎた。
 僕が家を追い出されたときには既にアイツの家の電気は全部消えていて、とてもじゃないけど転がり込む気にならなかった。
 平穏な家族の眠りを妨げるなんて、出来るわけ無い。



「このあたりにしとこうか。」



 ポケットの中に入っていたペンライトだけが、足元を照らしてくれる唯一の灯り。
 風にさざめく草木の葉音、そして森に息づく生物達の鳴き声を聞きながら、僕は一本の木の根元を今夜の宿に決める。
 太い幹が大きく抉れて、大人の男性が一人余裕で入れるスペースが出来ていたのだ。
 僕の体は年齢に不相応で小さいから、余裕で横になることが出来た。
 ここなら万が一雨が降ってきても、雨水をしのげる。



「さて、寝ようかな…。」



 幹の中で体を小さく丸める。
 目を閉じる寸前、前の景色を青白い炎が飛んでいった気がした。
 瞬間的に背筋が凍りつく。
 僕には霊感なんて無い。そのはずだ。
 それでもその青白い炎には寒気を感じずにいられなかった。
 ほんの一瞬だったから、見間違いなだけかもしれない。
 ついさっきまで噂を思い出していたら、余計に何かを炎と勘違いした可能性が高い。
 そう思いたかったけれど、



「――――っ!!」



 炎は、再び僕の目の前を横切っていった。
 さっきは一つだったけど、今度はいくつも宙に浮いている。
 どれも綺麗な青白い塊。きっと人はコレをヒトダマと呼ぶのだろう。
 ヒトダマには、地中のリンが空気中に放出されたとき、ある程度の温度によって発火したもの、という説がある。
 だからヒトダマなんて怪談話は、気温が高い夏に多いというのだけれど。



(どう考えても、コレは化学現象じゃないよね。)



 青白いヒトダマの中央に立つ、一人の青年。
 さすがにこれは化学的に説明できないだろう。
 青年は僕を見た。ぎょっとして、体がこわばる。
 暗闇の中、ヒトダマたちに照らされて立つ青年の瞳は綺麗な緋色。
 あまりに綺麗で、目を逸らしたいのに逸らせなくなる。
 頭の中がボーっとしてきて…眠くて…。
 けれど、不意にパンと頬を何かに叩かれた。



「正気になれ。」



 高くもなく、低くも無い声に言われ、ハッとする。
 青年はいつの間にやら目と鼻の先まで近くに居て、その手の内には扇を握り締めている。
 頬を叩いたのはこの扇だ。
 触れたということは、この青年は実体があるのだろうか。



「あの…人間ですか?」



 恐る恐る尋ねた僕を見下ろす青年は、一瞬あっけに取られたような顔をして、次の瞬間には酷く優しげな笑みを浮かべた。
 微笑む姿はあまりにも綺麗で、不覚にも心臓がトクンと早鐘を打つ。
 けれどもそれは一瞬のことで―――



「今日見たことは忘れろ。」



 トン、と扇で額を一突き。
 完全に不意を突かれた僕は、軽い衝撃にすらのけぞって、幹に背中をくっつける。
 途端に体が鉛のように重くなり、声も出なくて…。
 気が付けば、うっそうと茂る木々の隙間から太陽の光が差し込んでいた。
 いつの間にか朝が来ていたのだ。
 昨日晩のアレは幻だったのだろうか。



 7時ごろ、父親が仕事に行ったことを確認して家に戻った僕は、風呂に入りながら昨晩の出来事を思い出す。
 青白いヒトダマと、それに囲まれて現れた、とてつもなく綺麗な青年。
 人間にしてはやけに整った顔立ちだったけれど、触れることが出来たのだから幽霊ではないはずだ。



『今日見たことは忘れろ。』



 心地よく耳に響く声が、頭の中でループする。
 いくら忘れろといわれても、なかなか忘れられそうになかった。
 それだけあの青年との出会いは僕にとって衝撃だったってことだ。



 風呂から上がって朝食を採った後、母の様子を見に行く。
 今日は落ち着いているようで、静かにベッドで眠っていた。
 父親も一応面倒は見ていたようで、枕もとのテーブルにはきちんと食事がおいてある。
 無理矢理起こすのは可哀そうだから、そのまま声をかけずに家を出た。



 昨日晩の出来事を幼馴染みに聞かせようと思って隣の家のインターホンを押したけど、家の人は全員留守なのか反応が無い。
 この家に居留守を使うような姑息な人間はいないから、本当に出払っているんだろう。
 せっかく面白い話をしようと思ったのに、出鼻をくじかれた気分になる。
 仕方が無いから家に帰ろうとする僕の耳に―――



「ねぇ聞いた?今朝方変な生物がトキワの森に出たんですって。」
「サイトウのおじさんがビックリして銃で撃ったらしいな。でも逃げられたそうじゃないか。」
「猟師歴40年のあの人から逃げるなんて、やるわねぇ。でも一体なんだったのかしら。怖いわねぇ…。」



 散歩する老夫婦の会話が飛び込んでくる。
 今朝方、僕が森に居たときは銃声なんて聞こえなかった。
 サイトウさんが得体の知れない何かに出あったのは、僕が家に帰ってからだったのだろう。
 不意にあの青年の姿が脳裏に浮かんだ。
 どう見ても人間の姿形をしていたから、あの人が撃たれたわけではないはずだ。
 けれど妙な心配は、その日の晩、仕事から帰ってきた父さんに再び家から追い出されるまで消えることはなかった。
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